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2012-08-08 12:35 | カテゴリ:history
本業の歴史の話

 この写真の人物は誰だかわかりますか?この男の名前は榎本釜次郎。そう、後の榎本武揚です。ここ北海道にも縁のある人物ですが、昔から私の中で、今一つ印象が悪いんですよね。幕末、明治政府に抵抗し蝦夷共和国を樹立するも、あえなく降伏。そしてその後は、明治政府に仕え要職を歴任した政治家。そういうイメージがあるためか、世間からは「裏切り者」とか「保身術に長けた男」などという見方をされているのも事実。

ただ最近、彼についてちょっと調べてみた時、私の中に、そんなイメージとは別の榎本像が浮かび上がってきたわけです。

 
 時は文久2年(1862年)、榎本はオランダへ留学することとなります。

5月に江差に行った時に知ったことですが、幕府はオランダに軍艦『開陽』を発注しておりました。榎本らはこの開陽の受け取りの任に絡めての留学だったようです。そこで国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を学んだわけです。ですから当時の国際情勢を知っていた貴重な人材だったわけです。

 慶応4年(1868年)1月の鳥羽伏見の戦いが起こり、榎本はこの開陽の艦長として参戦するも、大坂城を守るはずの徳川慶喜は将兵を見捨て極秘裏に逃亡。上陸中で榎本が艦を離れているうちに、これに乗り込み江戸へ向かわせます。

 世界を知り、国際感覚を持った榎本の目に、果たしてこの徳川慶喜という男はどのように映ったのでしょうか?

 江戸城を無血開城の際、勝海舟は西郷にこう言いました。

「薩摩や長州はそのまんまなのに、徳川家だけが領地没収、武装解除と、どう考えてもおかしいじゃねぇか!」

 そこで勝は西郷に「無血開城するかわりに、徳川家にはそれなりの待遇を用意するんだろ?だったら、それに応じた兵力は持ったままでかまわないんじぇねか。」という妥協点を探り了承させました。

 この段階で、徳川家の最大に切り札が軍艦『開陽』だったわけです。これ一隻で制海権を握れるというわけです。

 しかし、旧幕府残党の彰義隊が、新政府の大村益次郎の前にわずか1日で壊滅させられると、状況は一変。勝は徳川家に200万石はあてがうだろうと皮算用していましたが、何と70万石。そうなると『開陽』は明治政府に引き渡しとなります。

 榎本はこれを不服として抗戦派の旧幕臣とともに開陽、回天、蟠竜、千代田形、神速丸、美賀保丸、咸臨丸、長鯨丸の8艦から成る旧幕府艦隊を率いて脱走します。私の感覚では、幕府とか徳川家がどうのこうのではなく、自分たちが手塩にかけた、軍艦をむざむざ薩長に取り上げられるのは、我慢ならないという心境だったと思います。
 
 途中、新選組や奥羽越列藩同盟軍、桑名藩藩主松平定敬らを収容し蝦夷地(北海道)に逃走するのは周知のこと。土方や中島三郎介、ブリュネなどの意地と信念の人たちとともに。

 明治2年5月、箱館湾海戦により艦隊を失い戦局は劣勢が決定的となり、ついに榎本は降伏。榎本は、オランダ留学時代から肌身離さず携えていた「万国海律全書」を、蝦夷征討軍海陸軍総参謀黒田了介(黒田清隆)に送った。黒田はその行為に感激し、自らの頭を丸め、熱心に助命嘆願活動を行いました。この辺りは、意地と死地を求め、斬り込みを敢行し戦死した土方や、降伏勧告を断り、最後まで戦い散った中島らと違い、榎本はどうも卑怯者に見えてしまう部分です。私も若いころは「何逃げてんだよ、責任者だろ、お前は!」という見かたしかできませんでしたが、年を取ると違って見えます。

“泥をかぶるのも勇気なんだよなぁ”

当時の人間も彼のこの行動は評価しないものも多かったはず。実際福澤諭吉もそのように彼を批評しました。なぜ降伏したのか…そこまで格好悪いことを選んだのも、彼が“日本の近代化”を強く願ったからなんでしょうね。死んでいく者には、その仕事はできないわけだから。


榎本公園へ


 しばらくして、黒田の誘いもあり榎本は新政府に仕官し、大臣の要職を歴任。“戊辰戦争で死んでいった者は地下で地団駄を踏んでいることだろう”と言われる所以ですが、その彼は、我々にもなじみ深い仕事もしてました。

 彼が逓信大臣の頃、「〒」のマークを発案したそうです。当初「T」でしたが料金不足の表記と混同するおそれがあるため、一本追加して「〒」。逓信の「テ」にも通じる見事なマークです。

 ここから現在の話です。わが町江別に「榎本公園」なる公園があります。とはいえ、非常にマイナーな公園で37年住んでいる私も当初ぴんと来なかった公園です。場所は国道275号線新石狩大橋の手前を東に600mの所にあります。実はここがわが町“江別発祥の地”なのです。

 江別開拓は明治4年(1871年)に宮城県人21戸76人が、対雁(ついしかり)に入植したのが始まり。…でなぜそこが現在榎本公園なのかというと。

 箱舘で敗れ、降伏した榎本は捕えられていましたが、「これからの日本に必要な人間(そりゃそうだ、当時の国際法を学んでおり、外国との交渉には必要だろう)
として3年後釈放。中央での仕事を断り(遠慮して)、北海道開拓使長官の黒田の誘いに応じ開拓使に勤務するかたわら、対雁に個人的に10万坪の土地を取得して農園を開いた。この跡地が「榎本公園」というわけ。

 そんないわれの公園ですが人っ子一人おりません。周りは現在は工業団地なので、もしかしたら昼食時に工員たちが集うのかもしれません。

 そこには何と騎乗姿の榎本武揚の勇ましい像があるとの事。それがこれ!

 ベンチから見上げるにはちょっと高すぎるところにある銅像。幕末好きな方には、見逃せないポイントです。
 
 西洋通な彼は、実はべらんめぇな江戸っ子。当時流行な欧化政策に批判的で、園遊会などではいつも和装だったから意外です。薩長の藩閥の中、旧幕臣という立場は肩身が狭かったろうに思えますが、私心のない姿勢が当時の人の心をとらえたのかもしれません。教科書では足尾鉱毒事件を教える際に、田中正造はやりますが、農商務大臣だった彼の仕事ぶりは出てきません。

 榎本は政府として初めて予防工事命令を出し、私的ながら自ら初めて現地視察を行いました。そして国が対応すべき公害であるとの立場を明確にし、抜本的な対策に向けて行動し、道筋をつけると自身は引責辞任。

 晩年、奇行から同郷の薩摩閥からあまされた黒田を気遣い、彼の葬儀委員長も務めることとなりました。こんなエピソードを知ると、「卑怯者」「保身術の男」などというイメージが払しょくされるのではないでしょうか。
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